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晩秋の合格発表

秋も深まり、様々な士業の合格発表が続いています。
どの士業も例年と比べて、合格率は低くなっているような気がします。
需要と供給のバランスを考慮したということなのでしょう。

公認会計士も先週の11月14日に2011年の合格発表がありました。
ここ数年の試験合格者の未就職問題があり、受験者数の減少は予想していましたが、合格率の低さは予想外でした。
なんと6.5%という低さです。

公認会計士試験は2006年に新試験制度に移行したのですが、それから数年間は10%を超える異常に高い合格率が続きました。
その後、未就職者問題もあり、2009年からは毎年大幅に合格率が低下しているのです。
これ以上未就職者を増やしたくないという「大人の事情」も分かりますが、それでは受験された方が気の毒です。

こんなことを続けていると、業界に優秀な人材が集まらなくなるのは確実です。
私は誰が合格者数を決めているのかはよく知りませんが、とても残念に思います。

何もできない自分に恥じ入るばかりですが、一人でも多くの合格者が実務経験を積める監査法人等に採用されることを祈ります。


信和綜合会計事務所(大阪市中央区の税理士法人)
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継続的研修

ほとんどの士業には「継続的研修制度」が課されています。
おそらく、どの士業も資格を取得した後も一定のレベルを維持させるために設定しているのでしょう。

私は公認会計士と税理士の登録をしていますので、二つの士業の継続的研修が課されています。
公認会計士:3年間で120時間(1年あたり40時間)
税理士:1年間で36時間

いずれもかなり大きな負担なのですが、厳しさは大きく異なります。
公認会計士の場合、研修時間の不足が続くと業務停止などの厳しい処分があります。
これに対して、税理士の場合は、今のところ研修時間がゼロであっても全く問題がないようです。
つまり、公認会計士は実質的に強制されているのに対し、税理士は努力目標にすぎないのです。

近畿税理士会の発表によると、年間36時間を達成しているのは全体の3割にも満たないとのことです。
このようなことを知らされますと、真面目にやっているのが馬鹿らしくなりますが、ルールは守らねばなりません。
ただ、税理士会主催の研修を受けると、意外と役に立つことがせめてもの救いです。


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解任請求

先日、日本公認会計士協会で波乱がありました。
約500人の会員が現会長の解任を理事会に求めていたようです。

実は私のところにも知り合いの公認会計士から署名に参加するよう依頼があったのですが、理事会内部での権力闘争の臭いがしましたので参加はしませんでした。

ただ、彼らの主張にも同意できる部分はあります。
ここ数年の合格者数の拡大により、公認会計士試験に合格しても監査法人等に就職できない人が増加しています。
このような多くの未就職者を見殺しにし、金融庁のいいなりに終始しているという点では、現執行部に反論の余地はないでしょう。

しかし、残念ながら、解任請求をしたグループにも有効な解決策があるとは思えません。
我々の次の世代を担うべき若者をなんとか救いたいと思うのですが、己の非力さを嘆くばかりです。


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囲む会

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昨日、中村先生を囲む会に出席するため、京都まで行ってきました。
中村宣一朗先生は大阪大学時代の恩師です。
先生は79歳になられていますが、現役で活動されており、お元気そうで安心しました。

昨日は東京からも3人が参加され、13人ものゼミ卒業生が集まりました。
中村ゼミは会計学をテーマとしていましたので、卒業後には会計に関する職業に就かれていることが多く、昨日参加された方の多くが公認会計士でした。

嬉しいことに普段はお会いする機会の少なくなっていた人ともお話をすることができました。
また、大監査法人のパートナーとして立派に活躍されている先輩や後輩にとても刺激を受けました。
私も頑張らねばと。

残念ながら、大阪大学は卒業後の人的交流が少ないことで有名です。
今後はこのような機会を増やしていければと思います。


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16歳の合格者

先日、平成22年の公認会計士試験の合格発表があり、なんと16歳の人が合格していたようです。

私は平成3年の公認会計士二次試験に合格したのですが、その時は21歳でした。
当時の最年少合格者は20歳でしたので、よく「おおっ!」と言われたことを記憶していますが、16歳というのは凄いです。

私が16歳の頃というと、河合その子(おニャン子クラブ・会員番号12)の親衛隊に入ったり、毎日ゲームセンターに通ったりと、酷いものでした。
もちろん、将来のことなど考えたこともなく、公認会計士などという職業も全く知りませんでした。

今回の合格者の方は16歳ですので、中学生ぐらいから公認会計士を目指していたのではないかと思いますが、その年代で将来のことを考えていたというだけでも立派です。
我々の業界でも、テレビなどに出演してスターと呼ばれる人が何人かいますが、彼も立派な公認会計士に成長し、スターになってもらいたいものです。
誰かのように説教くさいのは嫌ですが。。。

私もこの秋で試験合格から20年目に入ります。
若い人に負けないように常にアグレッシブでありたいと思います。


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開業秘話~臥薪嘗胆の日々

私は公認会計士資格を取得後、4年間在籍した監査法人を退職し、平成8年に26歳で独立開業しました。

独立開業といっても格好の良いものではありませんでした。
事務所は住居兼用の賃貸のワンルームマンション。
机と椅子以外の備品はファクス兼用の家庭用電話とパソコンのみ。
お客様はゼロ。つまり、収入もゼロ。
時間は売りたいほど余っている状態。
本当に惨めなものでした。

開業後の数ヶ月間は全く収入がなく、監査法人時代に貯めた預金も恐ろしい勢いで減っていきました。
ある程度の予想はしていましたが、26歳の世間知らずの若造と顧問契約をしていただくのは非常に難しいことでした。
このまま行けばすぐに預金がゼロになるという不安。
お客様を1件も獲得できないのではないかという焦り。
どうすれば状況を打開できるのか見当もつかないという悩み。
それらは私を食欲不振にさせ、激ヤセ(10キロ以上)させるのに充分でした。

そんな不安定な状態が1年ほど続きました。
生活資金を捻出するために、税務ソフトの開発会社の日当仕事もやりました。
それだけではなく、やらないと決めていた監査法人の日当仕事にまで手を出していました。
「独立開業したにもかかわらず、日当仕事で生計を立てる」
これは屈辱的な状態です。
何のために監査法人を辞めたのか?という自問自答の日々が続きました。
しかし、生活のためには「日当仕事」を辞めたくても辞められなかったのです。

1年後、数件のお客様を獲得し、ある程度の収入が見込めるようになった時、私は「日当仕事」を卒業しました。
生活は一時的に苦しくなりましたが、自分の仕事をしているという意識が強くなり、大きなやりがいを感じるようになりました。
少ないお客様のために一生懸命に仕事をしてきたことも大きかったと思いますが、その頃から、お客様や知人からの紹介が1件、2件と増えてきました。
当時の喜びと感謝の気持ちは今でも忘れることはありません。

また、その過程において、多くの人との出会いがありました。
その信頼関係こそ、現在の私の唯一の財産といっても過言ではありません。
これからも、さらに多くの方との信頼関係を築けますように、精一杯努力していきたいと思います。

(Episode 9)


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私が開業した理由~決断のとき

監査法人に入所して3年後、私は公認会計士3次試験に合格し、ようやく公認会計士となることができました。
その頃には、上場会社の監査だけではなく、これから上場しようとする会社(俗に、上場準備会社)も担当するようになっていました。

上場準備会社の場合、規程や管理システムが未整備であることが多く、上場会社となるためには多くのハードルを乗り越えなければなりません。
当然のことですが、お客様側では初めての経験ですので、わからないことも頻繁に発生します。
そんなとき、現在のようにインターネットで調べるといったことはできませんでしたので、当時は、監査法人に質問して疑問を解決するのが一般的でした。
私が担当していた上場準備会社は岡山県の建設会社でしたが、私あての質問の電話が徐々に多くなり、とてもやりがいを感じるようになっていました。
「信頼されているのかな」と。

その一方で、上場会社等の法定監査も数多く担当しており、出張日数は年間100日を超えていました。
新幹線に乗りすぎて、慢性的に腰が痛かったことを憶えていますが、出張は嫌いではありませんでした。
日常生活から離れ、日本各地の美味しいものを食べ歩いたことは良い思い出です。

ところで、上場会社等の法定監査は、財務諸表(決算書)が正しいものかどうか、つまり、粉飾決算をしていないかをチェックする仕事です。
財務諸表が適正であることを前提として、投資家はその会社の株式売買ができますし、金融機関や取引先はその会社を信用するのです。
つまり、監査は「社会」の為の仕事であり、決して「会社」の為だけの仕事ではないのです。
そのため、監査する監査法人には、第三者としての「独立性」が求められているのです。

しかし、法定監査を担当するすべての監査法人は、監査される側である会社から監査報酬を得ています。
また、監査法人間での関与先獲得についての競争、会社との監査報酬の金額についての交渉なども当然に発生しています。
「会社から報酬をもらっているのに、独立した第三者と言えるのか?」
「会社と監査報酬の交渉を行っているのに、会社に厳しいことを言えるのか?」
「それで社会から信頼されるのか?」
若かった私は常にそんなことを考えていました。(今も考え方は変わりませんが。。。)
このような疑問を上司や先輩に質問したこともありましたが、まともな回答は皆無でした。
「監査制度とはそういうものだ。バカなこと言うな!」
「それじゃあどうやって監査法人は収入を得るんだ?」
「監査報酬は適切な手数料だから、独立性には関係ない。」
どうやら、当時はその話題は「タブー」だったようです。

私にとって、大きな転機となったのが、平成7年1月17日の阪神大震災です。
あの時、6千人を超える多くの方が、心の準備もなく、自分の意思に反して、お亡くなりになりました。
当時は、悔しさというより、虚しさを感じたように記憶しています。
「若いうちに思いきってやりたいことをやってみよう。」
会社から報酬をいただいて「社会」の為の仕事をするのではなく、会社から報酬をいただくのであれば「会社」の為だけの仕事をしたい。

そして、阪神大震災の翌年の平成8年に、私は26歳で独立開業したのです。
人生の計画や勝算もない本能の決断でした。

(Episode 8)


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私の監査法人時代~修行の日々

平成4年3月に大学を卒業し、4月から中央新光監査法人に入所し、私の社会人生活がスタートしました。
私が所属していた中央新光監査法人は大阪事務所だけで100人以上の人が働いており、当時は五大監査法人の一つと言われていました。

監査法人というのは、公認会計士が組織で監査をするための法人です。
公認会計士となるためには3年間の実務経験が必要でしたので、当時の公認会計士2次試験の合格者はいずれかの監査法人で監査実務を経験することが多かったようです。
そして、3年後にようやく公認会計士3次試験を受けることができるようなり、それに合格してはじめて公認会計士になれるのです。
まさに医師のインターンのような制度です。

この頃、「会計士補」という資格を付与されていました。
名刺にも記載されていたのですが、自ら半人前ですと言っているような名称が最初は嫌でした。
実際、知識も経験もない半人前以下でしたが。。。
プライドだけは高かったようです。

しかし、入所するとすぐに監査の現場に行くことになり、そのプライドはズタズタにされます。
大学を出たばかりで知識も経験もない会計士補が、経理を何十年もやってきた上場会社の経理部長などに太刀打ちすることなど不可能だったのです。
全く相手にされず、悔しい思いをすることも数多くありました。
また、当時の監査法人は徒弟制度の色濃く残る組織でしたので、「見て学べ、わからないところは訊け」という方針に慣れるのにかなり時間がかかりました。

結局、一人前の会計士になるためには、知識と経験を積み重ねることにより、自分の能力を高めることが必要でした。
そのためには自分で勉強するしかなかったのです。
・監査
・会計
・ディスクロージャー
・商法
・税金
・監査対象会社の業界知識
など、勉強すべきことは山のようにあり、慢性の寝不足状態になっていました。
その中でも、税金については誰にも負けないぐらいに勉強したことを憶えています。
負けず嫌いな私は、法人税だけでなく消費税・所得税・相続税の税理士試験講座を受講するため、毎週土日に通学していました。
先輩の公認会計士の中には法人税には詳しい人はたくさんいたのですが、消費税や資産税のことはほとんど知らない人が多かったからです。
今となっては、税理士試験の受験者に混じって税法の条文を呪文のように覚えたことも良い思い出です。

当時の先輩の中には、「本で読んだ知識など意味がない」という人もいました。
しかし、今の私は「それが間違いである」と反論することができます。
知識のない状態では単なる「体験」であり、次に活かせる「経験」とはならないからです。
「本で読んだ知識だけでは意味がない」というのであれば、納得できますが。。。
もうこの辺りでやめておきましょう。

ところで、監査法人では色々な業務・業種を経験しました。
<業務>
・上場会社等の監査
・資本金5億以上の大会社の監査
・学校法人の監査
・上場準備会社の監査
・任意調査
<業種>
・建設業
・総合商社、専門商社
・運送業
・小売業
・工作機械製造業、電気部品製造業、木材製品製造業
・不動産業
・飲食業
など、多くを経験することができたことに心から感謝しています。

個人的には、諸般の事情があったとはいえ、中央新光監査法人(最終:みすず監査法人)が消滅したことは本当に残念です。

(Episode 7)


信和綜合会計事務所(大阪市中央区の税理士法人)
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私の中高時代~抑圧の日々

小学校時代のスパルタ式の塾のおかげで、私は私立学校に入学することになりました。
それが岡山白陵中学校・高等学校です。

現在の私の母校は東京大学に20人以上の合格者を輩出する進学校となっていますが、私の通っていた昭和56年~昭和63年当時は東京大学に合格する人は数人程度の学校でした。
私は10期生であり、学校自体の歴史が浅かったこともあるかとは思いますが、学園創設者M先生(通称:園長)の時代錯誤の教育方針が大きく影響していたことは否めません。

<不合理な教育>
①第二次大戦以前の自分が使っていた英語のテキストを使う。
→中1で習う英単語が「soldier(兵隊)」「tank(戦車)」
②中3から高2までドイツ語かフランス語が必修科目となっている。
→受験には全く関係がありません。
③中学校でも留年制度がある。
→義務教育で留年させるのは通常ではありえません。
④英文の暗唱テストが毎回あり、できないと尻を棒で20回叩かれる。
→ひとつ間違えるごとにマイナス5点の減点方式でした。
⑤M先生はいつ激怒するかわからない。
→当時は「園長が発狂した」と言っていました。

<理不尽な校則>
①通学以外で外出するときは事前に学校の許可を受けなければならない。
→違反すると2週間の停学
②外出する場合は制服でなければならない。(私服禁止)
→違反すると2週間の停学
③通学時に飲食してはならない。(ジュースも禁止)
→違反すると2週間の停学
④頭髪は丸刈り
→規定以上に伸ばすと、昔の武士のように頭の中央部だけ刈られる。

そんなM先生も私が中学2年生のときに急逝され、不謹慎ではありますが、正直ほっとしたことを記憶しています。
おそらく、M先生がその後も健在であれば、私は母校を卒業できず中退していたことでしょう。

M先生亡き後、上記の不合理な教育はすぐに見直されましたが、理不尽な校則はなかなか改められませんでした。
私はそんなバカなものを守れるはずもなく、卒業までの6年間に、恥ずかしながら無期停学:1回と停学2週間:1回の処分を受けました。

停学といっても、自宅謹慎などというヌルいものではありません。
学校の周辺で、穴掘りや草むしりなどの強制労働をさせられるのです。
高い授業料を親に払ってもらっているのに。。。

そして、私は自分は悪くないと信じていましたので、反省などできるはずもありません。
「退かぬ!媚びぬ!省みぬ!!」
この機会に身体を鍛えるんだと自分に言い聞かせて、狂ったようにツルハシを振るっていたことを覚えています。

まさに忍耐力だけを培った中高時代でした。

(Episode 3)


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私の小学校時代(後半)~競争の日々

怪獣の消しゴムのビジネスに忙しかった日々も、小学3年生の頃に一変します。
毎週土曜日に、学習塾に通うことになったのです。

その塾は、自宅から少し離れた姫路市内にありました。
毎週土曜日には、午前中の学校の授業が終わると、帰る途中で母親が待っているのです。
そして、家にも帰らずそのままバスに乗って塾に通っていたのです。
バスの中でお弁当を食べながら・・・

その塾は、ズバリ「勉強を教えてくれない塾」でした。
つまり、学校で習っていないことを、参考書などを見て自分で勉強しなさいという塾だったのです。

春休みを利用した7日間ほどの講習会では、その後1年間に学校で習うことのすべてを勉強させられました。
例えば、2桁×2桁の掛け算のやり方をまだ習っていない小学生に、自分で本を見て勉強しなさいというのです。
教えてもらうことが当たり前の小学生にとっては、あまりにも過酷な仕打ちです。
さらに、驚く量の宿題が毎日出されるため、毎日泣きながら勉強していたことを記憶しています。
そのため、講習会の期間中はほとんど寝る時間もなく、子供ながら毎日フラフラでした。

当時は酷い塾だなという思いが強かったのですが、結局、小学校卒業までの4年間休まず通いました。
不思議なことに、両親によると、一度も行きたくないとは言わなかったそうです。
生まれつき怠け者の自分には合っていたのでしょう。

そんなスパルタ式の過酷な塾でしたが、その後の自分を振り返ると、少なからず役に立ったこともありました。
・毎日テストがあり、成績が張り出されていたため、闘争心が養われたこと
・勉強を教えてくれない塾のため、自分で勉強できるようになったこと

6年後に大学生になった時、その塾で講師をすることになりました。
やはり、その塾が嫌いではなかったということかもしれません。

(Episode 2)


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